<副業として「売薬」を始める農民たち>
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<副業として工場で働く農民たち>
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■江戸時代、誇り高き武士の副業は〇〇だった!
<武士は副業で寺子屋を運営していた>
学生時代のアルバイトとして、学習塾の講師や、家庭教師を経験したことがある人も少なくないでしょう。実は、江戸時代の武士たちも、生活のために、当時の学校である寺子屋を運営していました。寺子屋の運営自体は、僧侶が最も多く手掛けており、次いで平民の割合が高かったものの、武士も兼業として寺子屋運営の主軸を担っていたのです。
関山邦宏(1997)によると、江戸近郷の寺子屋において、師匠の身分を名乗っていた者の内訳は、
”平民58.4%、僧18.4%、武士17.9%、神官・医師2.7%”
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寺子屋で子どもたちに読み書きそろばんを教え、副収入を得ていた武士は少なくなかったということです。
<ニワトリの卵を売って生計を立てる武士も>
武士の中でも下級武士の副業で多かったのが、養鶏の仕事でした。つまり、ニワトリの卵を売って、そのお金を副収入にしていたということです。下級武士が結婚し、子どもを設け、さらに使用人(下人)までつけていた場合、今でいう給与所得のみでは、ゆとりある暮らしは難しかったのでしょう。実際に鶏卵を販売するのは、妻や下人だったようですが、現代なら庭に小屋を建ててニワトリを育て、卵を直販するといった副業になるでしょう。
<地元の名産品をつくって販売するという副業も>
基本的にモノを販売するのは商人の仕事だった江戸時代ですが、少しでもゆとりのある暮らしを実現するために、武士の中には地元の名産品をつくって販売し、商業を副業にしていた人もいました。江戸時代には、日本は既に大量の紙を消費しており、紙の需要が高かったことが、紙の生産に武士が携わっていたことの背景にあります。
たとえば、高級紙を生産していた薩摩藩では、「郷士(ごうし)」と呼ばれた下級武士が、副業として紙の生産を積極的に行っていたそうです。郷士は元々、農業を兼業している人も多く、高級紙の生産・販売を副業とする武士は珍しくありませんでした。
<武士は意外と器用だった?ニットを編んで副収入を得ていた人も>
武士というと、硬派、不器用…という固定観念がある人も多いのではないでしょうか。そのような固定観念を覆すような武士の副業がありました。それが、ニットの生産・加工です。秋山勝男(1997)によると、(後略)
武士が器用に足袋や手袋を編み、生活費の足しにしていたことを考えると、切実な環境に抗うために努力するという姿勢に共感を覚える人も多いでしょう。
■副業を許されていたのは下級武士だけ?江戸時代も旗本以上は副業を禁じられていた
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<江戸時代の武士は副業を禁止されていた!許されていたのは下級武士のみ>
この記事でご紹介してきた武士の副業の中で、下級武士が実践していたものが多いのには、理由があります。江戸時代には内職と呼ばれていた副業は、武士だけの収入では生活が苦しかった下級武士にのみ認められた行為だったのです。下級武士の中には、副業をしても家族を養うことが難しく、子どもを養子に出したり、子どもを働かせたりして何とか生活している人も少なくありませんでした。
石高一万石以下の「旗本」と呼ばれる武士になると、多少は食えるようになる…という記録もありましたが、同じ旗本でも下級の場合はそれでもまだ貧しい家庭も多く、副業をしていた武士もいました。旗本までいくと、立場もあるため、もう鶏卵を販売したり、ニットを編んで販売したりするわけにもいきません。
<三味線を弾き、唄を歌って小銭を稼いだ武士も>
内職のできなくなった下級旗本は、高級旗本の前で特技を披露し、「おひねり」を副収入として生活費に補填していたという人もいたのです。特技は武士によって異なったようですが、酒の席で上級旗本以上の武士の前で三味線や唄を披露することを副業としていたのでしょう。何かを製造・販売するような商人的な副業ではなく、カタチのない芸を売る副業は、副業を禁じられていながらも生活が苦しかった下級旗本の生活を支えていたのです。
本業の所得だけで、裕福に生活できる人がほんの一握りであるのは、今も江戸時代も変わらないようです。(続きはソース)
2019/06/24
https://yaziup.com/business/work/62994
有名なのはアサガオ トンデモな変形アサガオを沢山拵えたらしい
傘張りってのは草鞋や草履の逆の意味あるからな
色々やってるぞ
団扇貼りとか
御家人とか下士だと浪人とそう変わらん
「必殺仕業人」の頃はまさに副業感覚だった
豊かじゃねえよ
>首切り浅右衛門は罪人の胆を薬として売ることを許されていたとか
浅右衛門は試し切りをした刀に自分の名前を署名すると
今でいう何十万円ってカネが貰えたらしいが
門人が沢山居たんだって
あと基本的に農村は自給自足
のちの専業主婦を生む土壌だよ
嫁を働かせるのは夫の収入が少ないからって言われた
嫁は家の中で働いて、家のグレードを上げていたんだろ
大手企業の社宅住まいだと、妻は手芸や楽器演奏以外の仕事はできなかった
例外的にランクの低い社員の妻だと、保険外交員はできたみたいだが
門司通り石高お米支給だから
それ売って現金化って
米本位制度ってなんでやめんかったのかね?
税が米だから
現金支給にすると相場変動のリスクを藩が負うことになる
給料日には米かついで帰るのかな?
銀行みたいなところに米が振り込まれるのかな?
俸禄の支給方法も藩によっていろいろ。
米の現物、それ相当の金銀または銭の現物、藩発行の手形。
鎖国っていうか周囲を海で囲まれていて食料輸出入するわけにもいかなかったし
徳川幕府も四代目以降は御金蔵尽きて借金まみれで財政破綻というか
含有量変えて信用されなかったのと飢饉になるとお金って食えないし
金銭の信用維持する為の裏打ちされるものが他に適当なのが無かったからじゃないかな
アワビ、ナマコ、椎茸とか輸出して胡椒とか砂糖を輸入していたよ。
米=領地だから、領地を与える=収入が米となる仕組み。
家来に領地を与えるのが体制維持だから幕府である以上変えれない仕組み。
なんてったって昆布らしい
律令制の租庸調が名目として存続していたから
何年かに災害や飢饉がどこかしらで起るので、金をもらっても食べ物が無ければ死んだも同然。
めぐりめぐって現金よりは食べられる売れる交換できるお米に至るんでしょうね。
米=養える兵士=軍事力
焼き物 菅笠 竹細工 生糸に絹織物 薬草に薬 綿花にワタ、、今でも地場産業 名産品として残っているのが有るだろ
武士が農家に金を借りるとかあったらしいな
農家って今で言うシャチョーさんだよ
なるほど
もう廃業したけど昔から代々農家をやってた親戚の家に刀や武具が山ほどあったと別の親戚から聞いたが
そういう金を貸した武士から借金の方に取ったものだったんかな
終戦直後の食糧不足の時に物々交換したのも有るよ
もともと日本の武士のほとんどは
武装農民、自営武装
主滅んで帰農した武士も多い
小領主・地侍・土豪も江戸時代は強制的に武士ではいられなくなったようだな
竹崎季長みたいに合戦のとき部下4人だけを率いて独立部隊として行動するような武士 こういうのも帰農させられたようだ
庄屋ならそうだけど小作は単なる従業員
武士は一握りで、大部分は口入屋に頼んで人員調達して体裁整えたり
大名といえども、やりくりが大変だったみたいね
江戸時代は口入れ屋が繁盛し、
今は人材派遣会社が大繁盛。
非常勤社員は使い捨て。
公務員は副業禁止
総じて江戸時代の武士の大半は貧乏
絵を売る(それぞれ特殊な事情はあっても、買い手はいた)ということも副業なのかな
学のある武士は塾を開いた
尾張藩は副業奨励されてて
廃藩置県後も商売を本業にして生き残った老舗多し
そこの社員は帰り際に、「ご無礼します」と頭下げて帰るように教育される
今で言う立ちんぼう
屋敷の敷地に別棟を建てて他人に貸す大家業
勝海舟は子供の頃3年に1度くらいずつ引っ越してた
それは父の小吉が勝家の拝領地に屋敷を建てず長屋を建てて人に嫁し
自分は旗本屋敷の別棟を借りて条件のよい所が見つかるたびに引っ越してたから
節約できる場面が少なすぎるわな
金がかかる事ばかり
本業が自宅待機、たまに登城。
下っ端になると登城出来ないから代わりに上役に顔見せだけ。
もちろん忙しい人もいるよ。